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逆行日記 <第5話>

〜I love Debussy ! part3 〜

*デカダン少々 ミーハー多少*
自ら憩う逆行が引き金となり、幾つか巨匠の伝記を読み加えてみました。
ドビュッシーをジキルとハイドにたとえて、「裏の面」に焦点を当てた
『ドビュッシー 〜想念のエクトプラズム〜』
青柳いずみこ著 (東京書籍/1997)がそのひとつです。

ここ10数年の間に19世紀末の芸術が大流行しましたが、音楽も例に漏れなかったようです。
中学時代に読んだ何冊かのドビュッシーの伝記は「印象主義」に色濃く染まっていましたっけ。
「象徴主義」という言葉は、記憶にありません。
当時、私はシンボリズムの定義を知らず、具体的に作品をイメージする事が出来ずに、読み跳ばしてしまったのかもしれません。
私が象徴派の美術、文学というのを知ったのは高校に入ってからでした。

ともあれ私は高2の辺りから学部まで、いえいえ今日でも(笑)象徴主義の絵画にどっぷり浸ることになったので、尊敬してやまないドビュッシー様の音楽を「象徴派」に位置付けするのは言うまでもありません。
但し私は「印象派」絵画を含めた世紀末の美術が総じて好きなのです。
象徴6.5、印象3.5の割合が心地よいでしょう。(笑)
それで、下記に引用させて頂いた本の前書きをどうぞ読んでみてください。

『ドビュッシー音楽に印象主義の概念をあてはめることで一番困るのは、印象派がパレットから追放した「暗い色調」こそが、世紀末デカダンス、ひいては、ドビュッシー音楽の裏の部分に照応している。(中略)
 音楽家でありながら文学青年としての趣味と活動形態を持ち、デカダン的な美学に心ひかれながら好んで印象派状態をつくりだしたドビュッシーのパラドックスの全容が明らかにされる。』

わくわくします。この書き出しは、私の創作理念とぴったり。
あらためて指針とさせていただきます。という具合。

それにしても、『ドビュッシー 〜想念のエクトプラズム〜』。
冒頭から、ひとクセあります。
少年の外見から語られるその描写は、いくら昔の断片的な知識とはいえ、氏の幼い頃の姿とはいえ、私が馴染んでいるドビュッシーの風貌に反していたのですから。
かの少年は、背が高く卵形の輪郭、バラ色の頬・・・あれ?
栗色の髪、わすれな草色の瞳!・・・えーっ?? これは何者!
それは詩人。アルチュール・ランボー。(勝手に美化暴走しすぎましたな)
でもいったい何故?

貧しい家庭環境に身を置くドビュッシー少年の才能を理解し、無償でピアノを教え、パリ音楽院の合格までを導いたのは、同じく象徴派の詩人、P・ヴェルレーヌの義理の母にあたるプチ・ブルジョアの女性でした。
詩人ふたりのセクシャルなスキャンダルとドビュッシー少年のレッスンは丁度時期が重なっているそうで、ランボーのハチャメチャな行動に振り回される婦人教師は、家庭内のごたごたを、教え子達に悟られはしなかったでしょうか。それをよそにドビュッシーは、一年ほどで見事に音楽院ピアノ科の難関を突破しました。もしかしたら著者の仮説通りに早熟の2人の天才、ランボー(16〜7歳)とドビュッシー(9〜10歳)はニアミスどころか、(お互いの性格から推測すれば)冷ややかな態度で、はち合わせしていたのかもしれないですね。
「印象主義音楽の創始者であり完成者」と定義されるドビュッシーの音楽に対して、一般が抱きがちな明るいイメージを、モノトーンなものとして暗示するのに効果的なエピソードでした。

ヨーロッパでは、多種多様なアーチストが入り交じってサークルが極自然に形成され、それが常々変動していて、何ともドラマチックです。
ことにドビュッシーは文学肌で、多くの作家たちと親交をもちました。
私は残念ながら文字恐怖症で「文学」にはめっぽう弱いのですが、それでも高名な作家がドビュッシーの親友であったりすると俄然興味が湧き、今度は詩人の伝記からドビュッシーの存在を確かめるのも乙かしらと不純な動機で拾い読みをしたり、しなかったり。(笑)
それより氏が傾倒していた同世代の象徴派の文学作品を乱読したほうがドビュッシー音楽の心髄に迫れるというものでしょう。
ですが私には文字はまるで暗号のように複雑で、一行一句の解読に大変な時間を取られてしまいます。
文字で綴られた情景は、背景から人物の身のこなし、声質やそれらを取り巻いている空間の湿度まで、総演出しないことには、私は次のアクションに移れません。
頭で整理できない時は、左手で本をなぞり、右手で宙に舞台を描きます。
上手く想像できないとパニックに陥り、全てのやる気を失います。(笑)
ですから、ある種の詩篇ほど手強いものはありません。
周りの読書家で速読の達人たちに聞けば、そんな手順は愚の骨頂だと。
文字はすでに完成された表現手段なのだから、文字列の巧妙に歓喜して、そっくりそのまま受け取ればよし。
取り立てて意識しなくても内容は把握できるんだとか。そんな無茶な〜。
素質が無いなら過剰な努力は時間の浪費。(持論で直る)
やっぱり伝記が面白い!取りあえず、それで満足しておくことにします。

今回も話が横道にそれました。ついでに詩人の話をもうひとつ。
ジャン・コクトー展に行って来ました。
サブタイトル【美しい男たち】(渋谷・東急文化村 〜5/20まで)。
頑強そうな青年たちが、コクトーの詩やドローイングに表されると、さらりと甘いのでした。真に受けていいのでしょうか。(笑)
阿片中毒に苦しむ自画像は、さすがに息苦しいものでした。
 人ひとりの魂って、なんて重いんでしょ。軽さと交互しながら、繊細な人もタフな人も、受けた生をそれなりに全うしています。
晩年の詩人の姿(フィルム)はじーんと心に染み入りました。
 詩人は創造の主として、あやかるべきなんですね。
国や時代を超えて、作家の「生きたあかし」を垣間見る事は、私の喜びであり、原動力です。
いいかも。この心境で、そろそろ男性の人形に挑むのもいいですね。

そしてまたひとつ思うところ有り。特筆事項で締めくくりましょう。
 久々に友人の結婚式に出席しました。素晴らしいカップルでした。
あてられましたー。おかげさまで、カサカサになって、うっちゃっていた精神のシワに潤いが戻り、張りが出て参りました。
人を愛することを怠ってはいけませんね。いや〜、ただそれだけで。

残念ながら、人形は人ではないし、作品は作家自身ではないのだっけ。


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