imago


[1つ前の日記] [過去の日記一覧]



グラディエイターからつらつらと

2006/03/13

ちょうど窯守りしていた深夜から明け方にかけて、テレビでリドリー・スコットの「グラディエーター」を観ていた。これまでに何度かTV放映されていて、途中断片を目にしては仰々しい映像だなと。バトル シーンは終盤だけで結構な私は、監督の名に親しみがなかったら、通しで見る事はきっとなかったと思う。とにかく壮大なスケールで終始よくできた映画だった。俳優も皆役にはまっていた。長編なので途中コーヒーを入れたり菓子を取りに行ったり、駆け足で用を済ませて着席。頬杖をついて集中。それだけ息をのむシーンが多かったのだけど、裏を返すと、あの時のあのシーンをもう1度見たい!という絞りができない。
ある時期「ベン・ハー」の馬戦車レースのシーンに感動して何度もビデオを見返していた私は、物語をクライマックスへと促す”静寂”は必要不可欠なもので、自分にとって「お気に入り」の重要ポイントである事がわかった。

ここ数年、アメリカ製の映画は眠くてつらい時がある。
映画館で居眠りを始めたのはジュラシックパークあたりからだった。
最高レベルのCGも15分で目が慣れ、ありがた味が薄れてしまう。
計算し尽くされたリズミカルなストーリー展開や音響はいつの間にか子守唄になってしまった。
より強い刺激を求めてエロスや暴力的なシーンがスピーディにエスカレート。それに飽き足らず宗教とミックスさせて魔術に走ったり。幼児期に亡くしたはずのフェチズムを呼び覚ましたり。

本能を突かれたらイヤでも目に留めるし印象には残る。観衆を惹き付け、支持を得るために、より効果の高い過激な見せ物が氾濫する。
ローマ帝国の享楽と退廃は、娯楽文化のいいお手本だ。素直に面白いと思う。
そして現代も着々と同じ道をたどっているように思える。
ネットやゲームは言うに及ばず。映画があぶない。本があぶない。
そして人形もかなりあぶない。それを受け入れている自分こそがあぶない。
この合否矛盾した危機感と憤りが人形制作という私の小さな航海の舵になっているんだな。

[1つ前の日記] [過去の日記一覧]


戻る